2018年1月19日金曜日

激動の戦後吉野林業を生き抜いた山の達人

川上村では、色んな人が参加しながらホームページを使って情報発信する「 むらメディアをつくる旅 」を開催しています。今回は山の達人・辻谷達雄さんを取材し、取材に参加した3名(小田芳美さん、福井崇生さん、前田知里さん)が記事を作りました。川上村のホームページには小田さんの記事を代表例として掲載しています。本記事では、福井さんが作った記事を掲載します。

激動の戦後吉野林業を生き抜いた山の達人

柏木集落へ

川上村役場のある迫集落から10キロあまり、車で20分ほどのところに位置する柏木集落に辻谷さんは今も住んでいる。ここは熊野街道の中間地点で、山上ヶ岳への登山口もあり、文豪・谷崎潤一郎の「吉野葛」の舞台にもなった集落だという。役場から車で国道169号を南にしばらく走ったのちに、どんどん細くなる山道を上がっていくと、明らかに役場の周辺とは空気が違うのを感じる。気温の差があるのはもちろん、山の気配のようなものが濃くなっている気がした。


この人は本当に84歳なのか・・・?

「山の達人」と言われる辻谷達雄さん。通称「達っちゃん」は取材に訪れた私たちをにこやかに迎えてくれた。家に招き入れるや否や、「足元寒ないか?」「みんな座れるか?」など私たちを気遣う辻谷さんは、肌のつやも良く、言葉のやりとりにも淀みがない。因みに辻谷さんの言葉の語尾には「・・・にゃ」というあまり聞きなれない言葉がつくことがある。これは川上村や隣の天川村に独特の言葉遣いなのだという。

体力に不安がでてきたため、20年間行ってきた山の学校「達っちゃんクラブ」を平成30年春でおしまいにすることを決めたという辻谷さんだが、実際に会ってお話を聞いている限りはお元気そのもの。病院にも未だ縁がないというから驚きだ。出していただいたお茶は自家栽培。素晴しい香りのお茶で私たちをもてなしてくれた。


激動の時代

川上村で生まれ育ち、15歳で山に入ったという辻谷さん。山が生きること、人生のすべてを教えてくれたと語る。最初は山守の下で働き、そして自ら会社を設立した。その後、会社を子どもに委ね、達っちゃんクラブを企画・運営してきた。

川上村には吉野杉というブランドもあるし、さぞかし順調な歩みだったのではないかと思ってしまうが、実はそうではないという。戦後に木材の需要が増し、大きな発展を遂げた吉野林業も、徐々に海外産の木材などにその需要を奪われ規模が縮小。そして伊勢湾台風やダムの建設なども、林業を主な産業としていた川上村に大きな打撃を与える。

林業と言うと伐採をイメージしがちだが、それだけではない。辻谷さんが仕事に選んだのは造林だった。伐採した後の山に、将来のため苗木を育てて山を作る仕事。村の仕事だけをしていては立ち行かないため、村外にも積極的に出ていくことで厳しい状況をしのいだという。

会社を息子さんに託したのち、もっと村へたくさんの人に来てもらわなければ、という使命を感じて始めたのが、山の学校「達っちゃんクラブ」だった。20年にわたって、多い時には年に10回以上も開催されたという「達っちゃんクラブ」。川上村の、山の自然の素晴しさをもっと多くの人に知ってもらおうというこのプログラムは、山菜採りや釣り体験、ハイキングに味噌づくりなど多岐にわたる。これまでに参加した人の数は累計で8千人以上。リピーターも数知れない。参加者の「また来たい」という言葉が励みになり、20年にわたって続けることができたと笑う。


現在とこれから

達っちゃんクラブの活動は、平成30210日(土)の「手作り味噌に挑戦」でその幕を閉じる。その他に現在行っている活動としては、小学校などへの出張授業がある。今後は、川上村のホテル「杉の湯」で、村の歴史などを語る「語り部」を頼まれていて、挑戦を考えているという。また、およそ70年にわたって毎日欠かさずしたためている日記をもとにした本の執筆にも取り組みたいと語る。これが実現すれば、平成10年に出版された「山が学校だった」に続く著作となる。


取材してみて感じたこと

率直に感じたのは、世の中凄い人がいるものだなということ。80代半ばにして、未だこれから取り組もうとするものがある。周りからもまだまだ必要とされていることがひしひしと感じられた。人任せにせず自分で考えてやる、ということを信条に、前向きに目の前の課題に対して取り組んできたからこそ、これまでやってきたことに悔いはない、と胸を張れるのだと思った。自分の体験を言葉で多くの人に伝えておきたいという達ちゃんに、ぜひ会いに行って、その話に耳を傾けてみて欲しい。きっと前向きな気持ちになれるはずだから。


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